24歳女求職中、残りの人生で本当の幸せを見つけたい

24歳求職中の女が、自分にとっての幸せはなんなのか考えます

人間にも象タイプとハエタイプがいる

象とか、亀のような寿命の長い動物の動きが比較的ゆっくりなのは、彼らの時間は人間よりもゆっくり流れているからで、

逆にハエみたいな、寿命の短い生き物が目にも留まらぬ速さで動き回るのは、彼らの時間は人間よりも速く流れていくものだからだ

 

みたいな話をどこかで聞いたことがある。

 

要するに、時間をどのように感じるかはあくまで主観的なものなんだなあ、と、まだ中高生くらいの私は感じた。

 

この考え方で行くと、同じ種類の動物だったら、時間の流れに対する考え方は大体同じくらいだと考えていいのかもしれないけれど、

最近の私は、同じ人間でも、時間の流れに対する感じ方って全然違うよなあ、と考えるようになってきた。

同じ動物でも、個体差はある。地球上の大体の人間は、同じ単位で時間を計っていて、一見用意された時間は同じだけのように見えるかもしれないけど、実のところ同じ1時間だったとしても、その感じ方は個体によって違うんじゃないかと思う。

例えば目の前にポッカリ空いた1時間が用意されていたとして、バイタリティあふれる人間ならば、この1時間でどれだけのタスクをこなせるか瞬時に洗い出して、いつのまにかやるべきことを終わらせているんだろうし、

少し休憩しようと目を閉じて、考え事を巡らせているうちに、次に目を開けた時には1時間が経過していたという人間だっているはず。

 

人間にも、象みたいなタイプと、ハエみたいなタイプがいるんだと思う。

今まで23年人間やってみてわかったけど、私は象みたいなタイプだった。

何せ、身の回りの出来事をこなすのに時間がかかる。(多分、これは何人かの友人の話を総合して出した結論だから、間違ってはないと思う)

かといって、効率よく物事を進めようとすると、吐きそうになる。

一応、自分の苦手分野だと認めて、克服する努力はしてみた。でも文字通り吐きそうになる。体が、自分に合わないペースを拒否しているようで、仮に日々のルーティン最短記録を更新することができても、結局浮いた時間は自分のペースを取り戻すかのように何もしないで過ごすので、時間を浮かせた意味がない。急いでもゆっくりやっても、どうせできる作業の量は限られてるみたいなのである。

あと、睡眠時間が沢山いる。子供の頃からロングスリーパーで、大学生になっても1日8時間以上寝ないと元気になれなかった。

 

そんななので、1日に8時間以上働く日々を週に5日も6日も続ける。

これは地味にきつかった。目が回りそうだった。

うまく残業が1時間くらいで済んでも、退社するのは7時、帰宅したら8時。

(あくまで私のペースで、だけど)風呂に入って1時間。食事の支度をして、食べて1時間。本を読んだり編み物をしたり考え事をしたりゲームをしたりして、ようやく自分の時間を過ごすこと1時間。これで11時。

 

睡眠時間はたった7時間。気づいたら朝6時になっていて、目が覚めてから起き上がれるようになるまで1時間。大慌てで支度をして会社に着いたら9時。

スピードを求められる資本主義のビジネスの世界で、ハエタイプの人間に囲まれて、自分のペースも何もなくひたすらにせっつかれ、自分が自分でないような気さえしながら働く……

 

週に5日、1日8時間以上労働しないといけないというのは、結構大変なことなのではないのだろうかと思う。

大多数の社会人の先輩たちにボコボコにされそうだけど、象タイプの人間には結構きつい。

前働いていたところでは、残業が月80時間超えていたし、休みも週に2日取れない時もあったので、なおさらきつかった。

休みの2日間を自分のペースで過ごせばいいのかもしれないけど、一度自分のペースに落とし込んだ生活を、たった2日で加速させて社会のスピードに合わせるにはものすごく労力がいるのだ。しかも2日なんて、象タイプの人間にとっては瞬きしているうちに終わっちゃうようなものだし、下手をすると社会人としてのペースにうまく戻れなくて、月曜日に遅刻してしまったりしかねない。社会的地位が失墜することが怖くて、休みの日にも、社会人のペースを忘れることのないように、と戦々恐々としながら過ごす羽目になるのだ。そんな気持ちで過ごす休みが、楽しいわけがない。大好きな読書も編み物もゲームも友達との飲み会も、気もそぞろで過ごさなくてはいけなくなる。

 

お分かりかもしれないけど、私はごく軽度の自閉症スペクトラムの兆候があるらしく、「切り替える」ことが苦手なのでなおさらこういう感じ方になるのだと思う。

 

それにしても、まっとうな社会人として生きるためにはこういう選択肢しか残されていないなんていうのは気が滅入る。

なんでだろう。人はそれぞれ違うのに、同じ型に押し込められないと生きていくことが許されないんだろうか。

得意なことと苦手なことは違うのに、みんながみんな同じ土俵で勝負しないといけないのはなんでなんだろう。

 

結局今私は、週に5日、1日8時間以上働かなければいけない職を探しているわけで、ひょっとしたらこれは慣れなのかもしれないなあ、と思っている節もある。

みんな、社会人の入り口では同じことを考えていたけれど、日々過ごしていくうちにそういう生活にも慣れ、日々の生活をテンポよく、睡眠時間も短く済むような人間になるのかもしれない。

でも、私のちょっとした違和感が、正しいという可能性もなきにしもあらずだ。

それは、私という個体にとって合わないのかもしれないし、ひょっとしたら人間という動物にとって合わないという可能性だってある。だって週5日8時間労働って、イギリスの産業革命の時にできたロールモデルだという話を聞いたことがある。もしかしたら、今後何十年かで、この働き方モデルはコテンパンにやっつけられるかもしれない。

 

それを確かめるために、私はとりあえずもう少し、慣れない労働を続けられるように頑張ってみようと思います。お金もないし、とりあえず就職したいな。

結論としては、働き方改革がどうのこうのというよりかは、

もう少し想像力のある世の中になってくれると嬉しいな。

みんながみんな自分と同じじゃないんだってことを、それぞれがわかってくれたらもっと生きやすいのになあ。

24歳女求職中、残りの人生で本当の幸せを探したい

「常識」とは、「社会通念」とは一体なんなんだろう、といつも思っていました。

 

例えば、時間というものに対する考え方について。

私の通っていた高校では、「勉強だけでなく部活にも打ち込まないといけないのだから、少しでも勉強に割く時間を増やすために、一分一秒を惜しんで勉強しろ」と言われました。

電車が来るのを待つ1分間、食事までの3分間。それが積み重なれば、「スキマ時間」をおろそかにした人間と比べて、大きな差がつくのだ、と。

 

そんなふうに追い立てられてガリガリ勉強していた最中に知ったのは、南の島の部族「パパラギ」の人々の暮らしでした。

そもそも彼らには「時間」という概念もなく、自分たちの年齢さえ知らない。

けど、日が昇ったら起きて、生活に必要なものを調達しているうちに日が暮れて、村人たちと交流して、眠る。それで幸せなのだという族長ツイアビの言葉が、英語の教科書に書いてありました。

 

おいおい、なんだよ。私は大人が、時間を惜しんで努力すれば幸せになれると言ったから、そうであろうと努力したのによ。

幸せになる方法って、これだけじゃないじゃん。

 

結局私は、1秒を惜しんで勉強することには向いておらず、ほどほどに勉強し、学内でほどほどの成績で高校を卒業しました。

 

その頃から、さも「当たり前」っぽく語られていることに対して、ちょっと斜に構えたようにツッコミを入れることが多くなってきました。

例えば忠臣蔵とか。

美談として語る人が多いですが、紛争が勃発している現代で同じことをやったら、「復讐の連鎖を続けてはならない」「許しを与えることで負の連鎖を断ち切らねば」とか言われるに違いないよね? どうして日本人はこれを美談だと決めつけるの? 本当にこれは美談なの? とか。

 

別に、世間で一般的とされてる考え方と自分の考え方がことごとく食い違ってるからいちいち楯突いているというわけではなく、

単に、自分で材料を集め、自分の頭で考えたというわけではない物事に対して語ることがいやであり、また逆も然りで、その人間の経験の深さや思考の積み重ねのようなものを通していない意見を押し付けられることが、嫌になったんだと思います。

 

だってさ先生、先生はツイアビの村行ったことあるの? 時間の概念がない世界を経験した上で、それでも時間を秒刻みにして生きることが幸せだと思うってことなら、その理由を教えて、納得したら私も時間を意識した人生を生きるから。そうじゃないんならさ、ちょっと出直してきてよ。世界の、あらゆる時代の知識を学んだ上でそれでもそうだと言えるようじゃないと、納得がいかないよ。

 

なんて、直接こんなことを言うわけがないですけど、当時はこれくらいのことを考えていました。

 

 

その、「常識」に対する疑いの眼差しは、就職活動にも影響を与えました。

いや、ほんとは私がダメ人間だっただけ、という話なのかもしれません。

私は、期限も守れないし知らない人に会うのは苦手だし言葉もスラスラ出てこないので、就活には向いていない人種でした。

結論から言うと、私は数カ月で、内定も出ないうちに就職活動を辞めてしまいました。

いろんなことが、辛くなった。だから逃げた。それだけの話なのかもしれませんが、就活をやめちゃおうとふと思ったその瞬間に、就活という制度と、それを経た後の生き方に対する疑いの念があったのも確かです。

 

つまり、

 

この就活という仕組みは、そもそも狂っているんじゃないのか。

というか、ひょっとしたらこの社会の仕組み自体、ガタがきてるんじゃないのか。

就活を勝ち抜いたとして、一日8時間以上、それを週に五日以上続けるだけが人生なのか。

本当に月に15万も20万も30万も、金が必要なのか。

なんだか、どこかに別の人生があるような気がしていました。

人嫌いで、口下手で、内向的で、行動力があるわけでもなく極度のめんどくさがりやである自分の、身の丈にあった生き方。

いつか、それに出会えるかもしれないと思いながら、私は大学4年の大半を過ごしました。

 

そのあと私がどうしたかというと、結局知り合いの口利きで一度は就職したのですが、会社としての体制がまるで整っていない環境にストレスが溜まり、これも数カ月で逃げてしまったのです。

そして、しばらくの療養を経て、今。

私は少しずつ、一度は逃げた就職活動を再開しています。

これには、少しだけ社会人やってみて、毎月まとまった額が入ってくることの安心感を覚えた、ということが大きいかもしれません。

それに、貯金も少なくなってきたから、どちらにしても働くことは必要だし、ならば正社員という形を取らないでおく理由は、今のところ見つからない。

そう思って、新卒を数カ月でやめてる人間に、正社員就職なんてできるかどうかもわからないけど、自分にあまりプレッシャーをかけないよう気軽な気持ちで、やってみています。

 

散々考えをこねくり回して就活を回避していた私ですが、結局また就活と向き合うことになってしまいました。

でも、別に、正社員で就職できたら私の人生は幸せなのだ、と結論を下したわけじゃありません。

世の中には、様々な考え方を持ったいろんな人が、いろんな生き方をしています。その中にひょっとしたら、もっと私にしっくりくる生き方があるかもしれないし、自分でつくちゃったりしたって誰にも叱られたりしないし。

もしかしたら、一周回って、コツコツ働いて仕事上がりのビールを楽しみに生きることが、私にとって正しく、幸せなことなのかもしれない。

もしかしたら、最低限の収入だけ得て、あとは後先考えずに好きなことに没頭するのが、私にとって正しく、幸せなことなのかもしれない。

もしかしたら、アルバイトと海外放浪を繰り返すのが、私にとって正しく、幸せなことかもしれない。

もしかしたら、一念発起して弁護士なんか目指しちゃうことが、私にとって正しく、幸せなことなのかもしれない。

 

私は自分に対する理解も、世界に対する理解も、23年生きていながらまだまだです。

自分は何を幸せと感じるか。何を正しいと考えるか。

本を読んだり、

楽しそうなことに首を突っ込んでみたり、

書いて自分と向き合ったり。

 

時間はかかると思いますが、せめて死ぬ前に、その答えを見つけたいです!